想像力のあとさき
「山下麻衣+小林直人:ノートとノートの中」展

小金沢 智

 世界が変わる瞬間がある。認識の変化によって、それまで見えていた世界がすっかり見違える─そんな経験がないだろうか?

 山下麻衣+小林直人が本展冒頭で掲げた《ヒエログリフで書かれたアーティスト・ステートメント》は、鑑賞者に供される作家当人による展覧会声明文だが、しかし、とうていすぐさま読むことができない言語で書かれている。ヒエログリフとは古代エジプトで用いられていた象形文字のことで、山下+小林はその表音文字を組み合わせ、日本語の50音に置き換え、それらによってステートメントを書いたのである。いや、書いたというのは正確ではない。なぜならそれらはキャンバスにアクリル絵具で描かれたもので、この意味で本作は絵画だからだ。実際、筆者にはまず絵として認識された。ハゲタカやコブラ、葦の穂などが秩序立って並ぶ様はいかにも端整である。

 と同時に、それが文章として意味を持つという事実は、目の前に展示の見方をよもや変えるかもしれない作家の言葉があるにもかかわらず、すらすらと読むことができない焦りも生じさせた。会場では日本語50音対応表が配布されているが、その場で全文を解読するには相応の時間と忍耐力がいる。実際筆者は、この場で読むことを諦めた。  表面は見えている、だがその意味にたどり着けないことのもどかしさは、《Artist's Notebook》にも別の形であらわれている。山下+小林のふたりがユニットとして活動する2001年以前のものも含めて近年まで、アイデアスケッチが描かれた36冊のノートをモチーフにしたその絵画は、ノートの表面が描かれ、肝心のアイデア=中身は徹底して閉ざされている。坂本繁二郎による箱をモチーフにした絵画から着想を得ているというが、坂本の描いた箱が必ずしも常に蓋で閉じられていたわけではなかったことを考えれば、その内容には大きな違いがある。

 こうして山下+小林は、見えているものに対し想像力によってなにを見出すことができるのか、私たちに問いかける。流れ星があらわれてから消えるまでを映像によって引き延ばした《When I wish upon a star》が、多数の願い事を唱えることを可能にさせたように、自然物・人工物の区別なくさまざまなものの写真に「me」と音声が重ねられた《I Am Everything, Everything Is Me》が、「私」の認識の拡大をくわだてさせたように、そのふるまいは大胆だが軽やかで屈託がない。  だから、山下+小林はこうも言ってのける。ヒエログリフの結びで、「ただ絵として美しいでしょ」と。鑑賞後の車中、苦労して読み終えたとき、呆気にとられて、思わずのけぞってしまったのは筆者だけか。なるほど私たちが見ている世界は、一見同じようでも認識の仕方によって個々人でその姿を変え、ゆえに私たちは他者なるそれらを知る努力を大いなる想像力をともなわせて続けるべきだ。しかし、意味を知らずとも、ただただ今見えているものの表面をつぶさに見つめることも忘れたくない。想像力はその行為のあとさきにこそあると、彼らは言っていたのかもしれない。そしてそれは紛れもなく、見ることに徹した画家の仕事なのだった。

美術手帖2015年12月号レビュー pp.182-183